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Corps Moenania Würzburg主催講演会
神余大使講演 「日独関係の祖としてのシーボルトの今日的意義」

(2011年12月10日、於ヴュルツブルク)


 2011年も間もなく幕を閉じようとしていますが,本年は日独交流150周年という日独両国にとって,記念すべき年でありました。1月には,大使公邸において,ヴルフ大統領,ヴェスターヴェレ外相等数多くの要人の方々にお越しいただき,オープニングセレモニーを行いました。その後1年を通じて,政治・経済・学術・文化・スポーツといった多岐にわたる分野で政治対話から市民交流まで様々な形で,各種催し物が行われ,先月30日には,ベルリンにて150周年のクロージング行事を執り行い,150周年は幕を閉じました。しかし,なんと言っても6月の皇太子殿下の御訪独と10月のヴルフ大統領の訪日が一番のハイライトでした。私も接遇のため,10月に一時帰国いたしましたが,多忙を極める一国の元首が6日間にわたり,1か国のみに滞在するということはあまり例を見ないことです。これはヴルフ大統領自身が日本との関係を極めて重視している証左に他なりません。

 日独交流150周年という特別な年である本年は,他方で日本にとっては大変な年でもありました。皆様ご承知のとおり,3月11日に東北地方で巨大地震が発生し,津波と原子力発電所事故を同時に発生させる近代国際社会がかつて経験したことがない規模での複合型の大災害となりました。この東日本大震災では15,000人以上の方が亡くなり,現在でも3,000人を超える方が行方不明となっております。この大震災の発生直後から,ヴルフ大統領,メルケル首相をはじめとする数多くのドイツの政財界の方々が大使公邸を訪問し,犠牲者に対する記帳,日本国民に対する同情のメッセージをいただきました。ドイツ全土に目を向ければ,各地でチャリティーコンサート等が数多く開催されるなど,あらゆる分野の様々な団体・個人による日本への支援活動が行われました。これに加えて,多くのドイツ人の市民・団体から被災者に対する義援金の提供もなされました。
 このような温かい支援に駐独日本国大使として,また,一人の日本人として心から感謝申し上げたいと思います。東日本大震災という,きっかけは悲しい出来事ではありますが,これを契機に日独両国の関係は深まりました。今日ほど両国の国民の絆が強まったと実感したことは,私の長いドイツ生活でも初めてのことでありました。

 ここで,このような固い絆で結ばれた日独両国の交流史を簡単に振り返ってみましょう。改めて申し上げるまでもなく,150年前の1861年,当時の日本の徳川幕府とプロイセンの間で通商友好条約が締結されました。その後,両国は,歴史的に幾たびかの試練に見舞われましたが,今日,国際社会において,共通の価値で結ばれたパートナーとして重要な役割を担っており,英国のBBCの全世界での世論調査では,世界に貢献している1位及び2位の国として高い評価が与えられています。こうした関係がこれからも受け継がれていくべきであることは言うまでもありません。日独交流150周年という記念の年に,改めて両国の歴史的な関係を振り返ることは,双方が歴史的に置かれてきた立場に理解を深めるとともに,未来における関係の維持・強化を目指すために極めて重要なことです。

 両国は,この150年間,それぞれを取り巻く異なる国内・国際的な環境や諸条件の下で,独自の道程を歩んで参りました。これを50年ごとに3つの時期に分けて概観してみますと,最初の50年間には,日本では1867年の大政奉還とこれに続く1868年の明治国家の成立,ドイツでは1871年のドイツ帝国の成立があります。ドイツも日本も近代国民国家を形成してまだ140年という比較的短い歴史をもっています。その意味でドイツも日本も遅れてきた国民国家として共通する側面があった言えます。この間近代化を急ぐ日本は,米英仏に比べて比較的新しい国家ドイツから,法律,軍事,技術,医学,思想,学術,芸術等幅広い分野について,多くを学んだという歴史があります。
 次の50年間には,両国を巻き込む2度に亘る世界大戦がありました。第一次世界大戦では,日独は不幸にも敵対することになりましたが,徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所で生まれたドイツ人捕虜との草の根レベルの交流は,今日もなお日独友好のエピソードとして語り伝えられております。その後においては,1940年に調印された日独伊三国同盟条約を背景に他国への侵略を行い,近隣諸国に多大な迷惑をもたらし,共に敗戦国となるという負の遺産を背負い込みました。
 さて,直近の50年は,ゼロからの再出発でしたが,戦後の新しい国際秩序の下で,両国とも平和指向の国家として,高度な科学技術や勤勉な国民性などの強みを活かし,奇跡的な経済復興を実現するなど,似たような道を歩んできました。その間,ドイツでは,国家の東西分断という困難な局面に陥りましたが,近隣諸国との融和を図るなど,様々な外交的努力を積み重ねることにより,見事に統一国家ドイツの再生に成功しました。他方,我が国も国家の分断こそなかったものの,多くの領土を失いました。しかし,戦後一貫して国際紛争を武力によって解決しない,核兵器を持たない,作らない,持ち込ませない,武器を輸出しないという平和外交を行ってきましたが,我々はこのような戦後の歴史に大きな誇りを持っております。また,日本は,ラインの奇跡ともいわれるドイツの発展に続く形で,1968年にGNP世界第2位の経済大国となりました。日本はその後中国に追い越されるまでの42年間この世界第2位の立場を守り続けてきました。勤勉な国民性,「ものづくり」を尊ぶ我が国の国柄は,ライン資本主義,社会的市場経済というやはり独自の経済システムを持つドイツと共通するものですが,ドイツとはお互いにライバルとして好ましい影響を与え合ってきたと思います。

 さて,日独150年間の歴史を駆け足で振り返ってみましたが,両国の間には公の交流の開始に先立ち,限られた範囲ではありますが,日独の交流が古くから存在していたことも指摘しておかなければなりません。遡れば,17世紀にはすでにヒッツァッカー(Hitzacker)出身の若き学者ヴァレニウス(Varenius)が大君の国日本について書き記しております。また,17世紀末の江戸時代,当時鎖国していた日本に,医師エンゲルト・ケンペルが訪れ,その滞在時の記録「日本誌」が当時のヨーロッパにおける日本紹介書として絶大な支持を得ました。また,その当時人気が高まった伊万里焼に魅了されたザクセン王アウグスト1世が,マイセン陶器の独自製作に取り組むに至ったこともこうした交流の一つに数えられると思います。しかし,ここではなんと言っても,シーボルト親子の功績に触れておかなければなりません。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは,1823年に長崎に到着し,出島内で医師として開業しました。ちなみに,「出島(でじま)」とは,江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に作られた人工の島のことです。当時は,原則として,日本人の公用以外の出島への出入りが禁止され,外国人もこの狭い出島に居住することを義務づけられていました。しかし,フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは,医者・学者としての信頼が厚く,特別に出島からの外出を許可されていました。彼は,医師としての仕事の傍ら,1824年には,出島の外に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開き,日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義をし,逆にシーボルト自身も日本人聴講生から日本について色々と教えてもらっていたようです。塾生の中には,高野長英(たかのちょうえい)など日本の歴史に名を残した著名な学者も含まれていました。これは,まさに日独学術交流の先駆けと言ってよいでしょう。
 しかし,1829年にシーボルトは,当時禁制品であった日本地図を海外に持ち出そうとして国外追放処分を受けてしまいます。日本では「シーボルト事件」と呼ばれる有名な事件です。オランダへ戻ったシーボルトは,日本で集めた資料や知識を元に,日本研究の集大成であり,全7巻からなる「日本」や,日本の動植物を紹介する「日本植物誌」や「日本動物誌」を出版し,ヨーロッパにおいて日本学(ヤパノロギー)の祖として名声を高めました。その後,1858年日蘭通商条約が結ばれ,シーボルトに対する追放令も解除されました。1859年,シーボルトは長男のアレクサンダーを連れて30年ぶりに再来日し,1861年には,対外交渉のための幕府顧問となりました。
 ここで,フランツ・フォン・シーボルトの子供たちの功績についても少し触れておきましょう。彼には,3男3女がいました。娘のひとり「楠本いね(くすもと・いね)」は日本女性との間の子供です。彼女は日本ではじめての女性産科医となり,明治天皇の子供の出産にも立ち会っています。長男アレクサンダーは,在京イギリス公使館の通訳を皮切りに,ヨーロッパにある日本の公使館などに勤務し,約40年間日本の役人として働きました。彼は,陸奥宗光(むつ・むねみつ),井上馨(いのうえ・かおる)などの明治の元勲との付き合いも深く,後年には井上馨外務卿(外務大臣)の特別秘書となりました。次男ハインリッヒは外交官としての仕事の傍ら,考古学者としても活躍し,日本の考古学の発展に大きく貢献しました。ちなみに,「考古学」という言葉を日本で初めて使用し,定着させたのは彼の功績です。

 このように,シーボルト親子が日独学術交流の祖として残した功績は枚挙に暇がありません。現在もドイツの大学では,日本学(ヤパノロギー)において,高度で幅広い教育研究が活発に行われており,これを担う大学の日本学部門は,日本語教育や日本文化発信の拠点としても重要な役割を担っております。また,毎年フンボルト財団の年次総会がベルリンで行われる際に大統領より直接,日独学術交流に功績のあった日本人研究者にシーボルト賞が授与されるのも,シーボルトの偉業に因んだものと言えます。ここにいらっしゃる皆様は,こうしたシーボルト親子の学術分野における業績について,すでによくご存じだと思います。他方で,私はもう一つシーボルト親子の業績として挙げたい分野がございます。すなわち,日本外交におけるシーボルト親子の功績です。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト,すなわち大シーボルトは,先に述べた「シーボルト事件」の後,欧州で最初の日本学教授としてボン大学に招聘されましたが,それを固辞し,オランダのライデンに留まりました。そこで,彼は,日本の開国を促すために運動し,1844年にはオランダ国王ウィレム2世(Wilhelm Ⅱ(Niederlande))の親書を起草し,また,1853年には,アメリカ東インド艦隊を引いて来日するペリーに日本に関する資料を提供し,早急な対応,すなわち軍事行動を行わないように要請しました。シーボルトは医者であるとともに,偉大な外交官でもあった訳です。
 日本は1868年に近代国民国家として,明治国家を樹立するまでは,鎖国政策をとっており,諸外国と「外交」を行っておりませんでした。日本が外交を担当する行政部局を最初に設置したのがまさに1868年です。こうして欧州列強からかなり遅れて外交デビューを飾った当時の日本にとって,外交とはまさに「海図なき航海」に等しいものでした。
 シーボルト親子が活躍した19世紀のアジア情勢を概観すれば,産業革命を達成したヨーロッパ諸国がアジアを安価な原料供給地及び自国産工業製品の大市場として位置づけ,積極的な進出をしていました。軍事力で圧倒的に優位にたつヨーロッパ諸国の威嚇の前にアジア諸国は敗北と屈服を重ね,植民地化の道をたどっていきました。こうした歴史の荒波から日本の独立を守り通すことは,当時の日本にとって容易なことではなかったはずです。そんな中,幕府の外交顧問を務めた大シーボルトや,井上馨の秘書を務めたアレクサンダーはまさに,日本外交の「羅針盤」として日本外交の舵取りに大きな役割を担ったと言えるでしょう。

 今年,日本は42年間にわたり保ってきた世界第2位の経済大国の地位を中国に譲ることになりました。こうした中国の目覚ましい経済発展は言うに及ばず,インド,ブラジル,南アフリカといった国々の台頭も目覚ましく,さらに今世紀はアジアの世紀と言われるほど,経済的な発展には目を見張るものがあります。シュピーゲル誌によれば,2030年には中国がGDPで世界1位,米国は2位,日本は5位,ドイツはロシアに次いで第7位と予測されています。更にPrice water house Coopersの予測では2050年には日本は5位,ドイツは英国とともに9位となるとの予測があります。これはいくつかの予測のうちの1つであり,その通りになる保証はありませんが,ある程度の傾向を示しています。今日,リーマンショックを契機にした金融危機の対応の枠組みとしてG20という新たなグローバルな枠組みも登場しています。これらは,もはや米国一国では世界の主要な課題に対処できないことを示すだけでなく,世界秩序の地殻変動とも言うべき,政治と経済の多極化の動きが加速していることを如実に物語っています。さらに,今日の世界は,金融・経済問題に加え,気候変動問題,テロ,エネルギー問題等世界規模のグローバルな課題に直面しています。私自身,40年近く外交官として仕事をしてきましたが,今日ほど困難な外交的課題に直面している時代はありません。日本は1868年に国を開く第一の開国を実施し国際社会に登場しました。どの後第二次大戦の終戦を迎え,第二の開国を行い,民主主義国家として世界の経済大国になる道を歩みました。冷戦終焉後はバブル経済がはじけ,「失われた10年,20年」と言われるデフレの時期を経て,大震災を経験し,まさに今や第三の開国を迎えようとしています。激動の世界情勢の中で,日本外交を導いたシーボルト親子は,今日,私たち日本の外交官にどんなアドバイスをしてくれるのでしょうか。そう問いかけずにはいられません。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは,日本から追放された後30年を経て,再来日するなど,心から日本を愛し,日独関係が発展することを心から願っていました。こうしたシーボルトの想いは,その後150年間しっかりと日独の間で受け継がれてきました。
 日本が本格的にドイツとの交流を開始した明治,大正の時代には,ドイツは卓越した学術水準で名声を高めており,ベルリン大学などのドイツの大学には多くの日本人留学生が学び,フンボルトの「教育と研究の自由」や「教育と研究の統合」などの理念の下で,最先端の科学技術,医療,芸術文化を習得し,我が国の近代化の基礎に大きく貢献いたしました。また,いわゆる「お雇い外国人」として来日し,指導に当たったドイツ人研究者・技術者の名前も日本で良く知られております。
 この時期の日本人留学生には,帰国後,西洋音楽の紹介に尽力した者も含まれております。その後,西洋音楽は日本に広く普及し,今や我が国の文化の一部にもなっておりますが,決して一方向的な流れではなく,今日では,ドイツのトップクラスのオーケストラにおいて少なからぬ日本人演奏家の活躍ぶりを見ることもしばしばあり(ベルリン・フィルのコンサートマスターは2代続けて日本人が務めています。),日独の双方向の文化交流が生まれた領域の一つに数えることができると思います。
 また,今日も両国では,留学生交流や共同研究など大学間の交流が比較的活発に行われております。ドイツのアレキサンダー・フォン・フンボルト財団やドイツ学術交流会の助成を受け,ドイツに学んだ日本の学生・研究者は,我が国の各方面で重要な役割を果たしており,もちろん,日本に学んだドイツ人留学生・研究者もドイツの各方面に進出し,日本学術振興会(JSPS)の同窓会組織も出来るなど両国の架け橋となる役割を果たしております。
 留学生などの若い世代の交流は,両国の友好関係を次世代に継承・発展していくために今後とも極めて重要な役割を果たすものであると思います。1985年に,当時の中曽根首相とコール首相の両首脳の提案により「ベルリン日独センター」が創設されましたが,我が国は各種の学術会議や人的交流事業を通じてこうした青少年の交流の促進にも鋭意取り組んでおります。両国の関係の将来のため,これからも,学術,文化,芸術,スポーツ,社会活動など様々な分野で,青少年交流が活発に行われていくことを心より望んでおります。

 日独両国は,国土面積や人口規模,少子・高齢化が進行する人口動態など,外形的によく似た側面が多く認められるほか,自由や民主主義など,共通の価値で結ばれたパートナーとして,国際社会で重要な役割を担って参りました。敗戦国として再出発したという経緯を経て,将来,平和創造国家として国際社会で存在感を示していくことが両国の基本的な方向であると思います。
  また,国民性という点でも,ドイツ人と日本人はよく似た「徳性」や「徳目」を持っており,時代を問わず誇るべきものとして,これを失わせないことも我々の務めであると思います。もちろん,両国とも,「科学技術立国」として発展してきたという歴史があり,現在も世界最先端の科学技術大国としての高い地位を誇っております。両国であれば,電気自動車や太陽光発電などの再生可能エネルギーの利用といった経済成長と環境問題の解決を両立させる技術に対する需要に応えたり,人口や資源が少なくても経済発展が可能になる新たな産業革命とニューエコノミーを生み出していけるかもしれません。そうした共通性や互いに寄せる敬意や親近感を踏まえれば,日独には,まだまだ,お互いに学び,協力し合える余地が多く残されているのではないかと思います。そして,まさにそれこそ,シーボルト親子が願った日独関係のあり方ではないでしょうか。日独交流150周年という記念の年に,両国交流の礎を築いたシーボルトの功績に改めて目を向け,今後のあるべき日独関係について考えることは大変意義深いことだと信じます。

 ご静聴ありがとうございました。

 


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